2006年7月。
それは副業収入が会社の給料を超えた月だ。
ビジネスモデルは「マーケティングソフトを売る」。
そして2006年4月に開発を始めたソフトウェアがブレイク。
一気に私の名前が知れ渡り、いまでも当時のソフト名を出すと
「ああ、あの石田さん」と思い出してくれる人も多い。
6年前の仕事の成果が、いまでも享受できていることになる。
しかしそんなソフトウェアのアイデアを生み出し、「この方法で独立できる」と自信を持つに至るまでには、長い時間がかかった。
「情報処理技術者試験」という国家試験の受験が終わりホッとしていた2005年春にまで、話は遡る・・・。
― ◇ ― ◇ ― ◇ ― ◇ ― ◇ ―
2005年4月。
ソフト開発会社に転職してから1年と半年が経過していた。
私はこの仕事に嫌気がさしていた。
多くのプログラマはどこかの会社に「派遣」され、その派遣先で仕事をする。
自分の会社で仕事をすることの方が少ない。
たとえばAという会社がある仕事を受注するとする。
Aは自社のプログラマだけでは足りないので、「協力会社」と呼ばれる、仲のいい会社にプログラマを一時的にレンタルするのだ。
つまりソフト開発会社の多くは「プログラマの人材派遣会社」なのである。
レンタルされたプログラマは、派遣先で仕事をすることになる。
しかしその労働環境は劣悪な場合が多い。
一ヶ月単位でレンタルしているため、残業、休日出勤を強いる。
同じコストで生産性が高まれば、それだけ利益が生まれる。
それが派遣先の会社での「正義」なのだ。それを実現することで評価につながる。当然の理論だ。
「愛社心」など不要。
文句を言おうものなら「お前のところのプログラマは口ばかりだ」と、レンタル元である会社にクレームをつける。
レンタル元である会社は社員であるプログラマに対して「お客さまからクレームがきた」と伝えればそれで終わり。
経緯など不問。「クレームが来た」という結果がすべて。
プログラマは口をつむぐしかなく、文句の言わない『右を向け』といわれれば右を向き、『左を向け』と言われれば左を向く、実に扱いやすいプログラマが完成する。
そして「文句を言わない人間」が評価につながり、自社に連絡がいく。「実に優秀なプログラマだ!」と。
そんな背景もあり、多くのプログラマにクリエイティビティは不要なのである。決められたプログラムを書いてくれればいいのだ。
余計な考えは不要。
『ワクワクしながら仕事をすることで、発想が広がり、クリエイティブな仕事ができる』なんて、遠い世界の話に聞こえた。
転職によって月給が大幅に下がった私にはとにかく「がんばる」という選択肢しかなかった。
「がんばる」とは基本的には「派遣先の会社に貢献する」ことである。
そうすることで自社に「石田というプログラマはがんばってくれている」と伝わり、結果的に私の評価があがる。
そして年1回の査定時に給料があがるという仕組みだ。
がんばりが認められるまでなんともあくびが出るような長い道のりなのだが、それしかなかった。
一般的な「自社に貢献する」というがんばり方にくらべ「派遣先でがんばり、それが自社に伝わり、結果的に貢献が認められる」仕組みは、モチベーションの維持に大きなマイナスである。
しかし多くのプログラマはそんな労働環境の中、日夜「プログラミング言語」という言葉でパソコンに対して命令文を記述し続けている。
そんな時、雑誌『日経ソフトウェア』の特集記事を目にし、私はある決意することになるのだった・・・。